ひとりの祭


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深川に住んで十一年になる。それまでは、目黒と品川で十余年暮ら した。在京二十四年の半分近い年月を、下町で過ごしたことになる。 くわしくは、江東区牡丹町二丁目だが、私はここが大そう気に入っ ている。

入居した年の八月、深川八幡の本祭りにぶつかった。十五日の朝ま だき、戸外がひどくざわめいている。ベランダへ出てみて仰天した。 四階から見下ろす牡丹通りを、神輿の行列がびっしり埋めていた。

五十基の神輿が勢揃いする出発地点だったのである。下町をなにも知 らずに越して来て、この幸運にめぐり逢い有頂天になった。私の住ま いから深川八幡宮までは、歩いて十二、三分であり、並びには深川不 動尊があって、月に三日縁日が立つ。

仕事に疲れると、私はよくこの辺を散歩する。川があって橋が多く、木 場の名残りをとどめる川筋の風景は、毎日眺めていて少しもあきない。 史跡めぐりのもこと欠かず、辰巳芸者の出入りする料亭が軒を並べる小 路も、寂れはしたがまだ充分風情がある。

私が越して来た頃は、この小路で夜ともなれば、新内流しの爪弾き聞か れた。粋な着流し姿で、三味線抱えて流していたのは、初老の男だった。

木場が移され、川面に木材が見られなくなると共に、岸辺にニョキニョ キと高層ビルが建ち始めた。マンションやホテルである。見通しがきか なくなり、川面を彩る夜のネオンも、風情を無くして情緒が薄れた。

それでも、ここには祭がある。三年に一度の本祭のほかにも、毎年町内 ごとの祭は行われている。門前仲町の商店街には赤白の引き幕が張られ、 提灯がゆれて、ピーヒャラ、と祭囃子も流される。

マンションの管理組合から、町内会に納める寄付金の話が持ち出される 頃になると、私は近づく祭の気分で落ち着かなくなる。

猫と二人の暮らしだから、祭に浮かれて飲んだりさわいだりするわけで はない。それでも、自分の町の、地元の祭だという気分になるからおか しなものだ。

目黒や品川に居た時代は、身近な祭にもさして心を動かされなかった。旅 行者の気持ちで暮らしていたのだろう。
私の郷里は、長野県の山村である。古くから伝承された祭は幾つかあるが、 神輿の出るような夏の祭は無い。

なつかしく思い出されるのは、部落の真ん中にある観音堂のリンゴ市であ る。八月の下旬だから、農家では稲の三番除草が終わって、ホッとした時 期に当たる。昼は坊さんによる供養の読経があって、村人は持ち寄った酒 を酌み交わす。夕方から夜の更けるまで、部落の沿道にはびっしりと、リ ンゴを山積みした露店が並んだ。アセチレンの匂いが立ちこめる夜道を、 浴衣やワンピースに着替えた村人達が、ぞろぞろと集まって来た。私の小 さな初恋は、そんな素朴なにぎわいの中で芽生えた。

今、東京の下町で味わう夏祭は、粋でいなせで、盛大で、めっぽう威勢が いい。いそいそと神輿見物に行く私は、もう恋の味も知りつくした姥桜で ある。

独り暮らしの女にとって、祭とか正月とかの、世間様がにぎやかに楽しむ 時というのは、どうも工合が悪い。正月の淋しさを独りで耐えるのが嫌だ から、旅に出るというエッセイを書いた女流作家がいた。

祭も似たようなものだ。浴衣などを着て、神輿見物の人混みにまぎれてみ ても、一人はやはり独りである。まわりはみんな家族連れか、アベックか グループで、「見て、見て!」「ワッ、すごい!ね、ね・・・」などとや っている。こっちもワクワクして、同意を求めようとするが、合槌打って くれる連れが居ない。
しらけて淋しくても、やはり私は出かけて行くし、祭は好きだ。

神輿見物は炎天がいい。冷夏の時は、見物人もはずまなかった。初めて見 た日は、アスファルトも溶けそうな猛暑で、神輿を担ぐ男達の全身から湯 気が立っていた。

ここの祭は、別名水かけ祭と言うだけあって、沿道から浴びせられる水の 量は大変なものである。地鳴りのようなどよめきが近づくのを、今か今か と待つのも楽しい。
芸者衆や世話役の先導で唄われる木遣音頭がまたいい。褌姿のお角力さん や、裸の全身にくりからもんもんの刺青した男達を見かけるのも、この祭 である。

背中いっぱい、花札の図柄なんかを浮かせた、いなせな若い衆なども居て、 江戸の祭の遠い賑わいが甦ってくる。
ひよっとすると彼らは、地元の者ではなくて、昨今はやりのお神輿野郎で 、担ぎに駆けつけた連中かもしれない。
外国人も、女性の担ぎ手も、ぐんと増えたのは、いい事にちがいない。田 舎者の私が、下町っ子面して、納まっているのだから。

五月に上梓した小説の中で、私は主人公の一人を深川生まれに設定した。
下町の小さな和菓子屋の娘は、私の想像の中で自由に生きて動いてくれた。 彼女の兄は下町を出ていたが、深川祭には神輿担ぎにすっ飛んで帰る。鼻柱 は強いが、単純で気のいい男である。

そんな人物達が、いつの間にか、私の生活圏内に紛れこんで来た。魚河岸に 勤めるKさん、呉服屋の若旦那、不動産屋を営む肝っ玉母さん・・・。十一 年の歳月がもたらしてくれた結果だろうか。

私は最近、木場の歴史に惹かれている。暮らしの中から眺め、肌で触れた感 じのその奥を知りたいと思う。これから先もたぶん、ずっとひとりの祭を味 わうだろうが、ここに住むかぎり悔いはない。
 

 
杜父魚文庫