ウバメガシ幻想 20020916
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作家田宮虎彦氏の代表作に『足摺岬』がある。1930年代という軍国主義
台頭の暗い世相を背景に、生と死との間を逡巡する青年が主人公の作品
ですが、この小説のなかで以外にもひとつの植物が名脇役をつとめてい
る。脇役というより伏線的効果を挙げているといった方が適切かも知れ
ない。
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作品の要所にその植物の名前が表れるたびに、読者の脳裏に主人公の暗
い心理状態を強く印象づけ、臨場感を醸し出す効果を上げていると私は
感じている。
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小説『足摺岬』で、そんな重要な役を担っているのが、知多半島に暮ら
す我々にも身近なウバメガシ(姥目樫)です。小説のなかでは田宮虎彦氏
は馬目樫(うまめがし)という地方名を使用している。馬目樫という特異
な字面と、響きが効果的に主人公を際立たせている。たつた30数ページ
の掌編のなかに、雨と抱き合わせで、スポット的に7度も登場し効果を盛
り上げている。
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その部分を列挙してみる。
(イ)・・・お内儀のあけた雨戸のすきまから流れこむにぶい明るみが、
赤茶けた部屋の中にかすかな青みを投げこんだ。それはのき先の馬目樫
の葉のしげみのせいだった。・中略・その青いいろのついた夢を見てい
た。青い雨がふり・・・
(ロ)・・・私はその柱時計の音をききながら、井戸端にしげっている馬目樫
をみあげた。それはまわりがひとかかえあまりもある大きな馬目樫であ
った。木にも体臭というものがあるのだろうか。雨にぬれた葉のひかる
ようないろつやが、・・・
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(ハ)・・・二里近くあるいたようにも思う。雨にあらわれた白い県道が
馬目樫の林をぬい、たぶや榕樹のかげを曲折しながらのぼり坂になった。
人一人会わなかった。・中略・不意に、暗い雨雲におおいつくされた怒
涛のはてしないつらなりが、私の目の前にくろぐろと・・・
(ニ)「少しは凪いだようじゃ」。とつぶやくように答えた。のきをなに
かがうっている。浅いねむりの中できいた音だが、そのとき、私はそれ
が、馬目樫の下枝が風にふきつけられてのきをたたいているのだと、ふ
っと気づいた。・・・
(ホ)・・・やはり横なぐりの雨のふりしきつている日のことであつた。
遍路は清水の町はずれの馬目樫の林の中にゆきたおれていた。遍路はそ
れから・・・
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(ヘ)・・・夜がふけてくると、大粒の雨がポッポツとのきをうちはじめ、
うら山の馬目樫の林をならしてふきすぎていく風のうなりがごうごうと
もののけのようにきこえはじめた。お内儀も八重もすでに寝部屋にはい
っていた。茶の間には遍路と私しかいなかつた。・・・
(ト)「まあ、この時化に」。すでに私には義母であるお内儀はぬれそぼ
った私をみると、老いこんだ頬に涙をうかべてかかえいれるように私を
むかえたが、・中略・夕方、私はふりしきる雨の中を墓地へのぼってい
った。雨にけむって外海はみえぬのだが、山峡の墓地からは、いつもは
かすかに荒海がみえるはずだった。私は八重の墓標の前にうずくまって
横なぐりの雨が馬目樫のしげみをうつ音と、遠い荒波の磯をうつ地ひび
きとをきいていた。くらくなるころ、竜喜が私をむかえにきた。八重に
似ぬ大柄な竜喜はうずくまっている・・・
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