消すことのできない原点 ふるさと回帰 760000
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去年のいつごろだったか、あるテレビ局が、上野駅をねぐらにしている浮浪者を数人
集めて、インタビューをする番組を流したことがある。「どうして上野駅がいいんで
すか」という質問に、その一人が「故郷につながっているから・・・」という意味
を、ピンボケで間のびした口調で答えていた。
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吹き寄せられた落葉のような人達の、その口からもれた、「ふるさと・・・」という
ことばは、どんな名優の台詞より鮮明に、やり切れない哀切感を伝えていた。
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生まれ育った土地を離れて暮らす者にとって、故郷とはなんであろうか。人によって
は、ただなつかしく、暖かくて母親のごとくなんでも受けいれてくれる存在であるか
もしれない。また、やり切れない憎悪や哀しみの念を抱いて、帰るに帰れず、背を向
けている人もいるにちがいない。故郷は肉親であり家であり、大地であり、山河のす
べてをふくんでいる。生まれ育った土地や家の外に出て暮らしたことのない人には、
故郷のほんとうの意味はわからないかもしれない。
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私にとっての「ふるさと」とは、なんであったのか・・・、今度の受賞(編者注記
田村俊子賞)をきっかけに、私は日毎にそれを自分に問い詰めずにはいられなくなっ
てきた。私がこれまで書いた作品はすべて農村に材を取っている。村であり、家であ
り、そこで暮らす人達の生きざまであった。
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そして書く私は、東京の真ん中で、アクセサリーというこれまた生活の中で一番余計
な、いらない物を扱う仕事で生計を立ててきた。私の小説を読んだ人は、現実の私と
作品がどうしても結びつかないと首をかしがる。そして、「なぜもっと身近な自分を
書かないのか・・・」と問いかける。
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私は自分の小説の中で次のように書いたことがあった。<私は、自分の躯がふたつに
折れ曲がっているような気がしていた。そして折れて切れた半分を故郷に置いてきて
しまったような気がするのである>今も、これは実感として私の内部に残っている。
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私がはじめて故郷を出たのは24歳の時だった。家族も村も捨てるつもりで、清水市
で三ヶ月ほど生活した。それまで生まれ育った生活のすべてを忘れようと、必死で街
の暮らしにのめり込んでいたのだが、たまたま、私は郊外の田圃路を通るはめになっ
た。夜であった。六月の終わりで、あたり一面の水田からは、繁茂した稲の葉ずれの
音が湧き立ち、水面のきらめき、土の甘い匂いが一度に私の感覚に、なだれこんでき
た。私は不用意にも一挙に故郷のすべてを思い出してしまっていた。
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田圃の畦みちに膝をついて、泥田の中に手を突っこみ、両手で土を握りしめ、畦草を
むしり取りながら、私は手放しで慟哭していた。青春の情熱のすべてを注ぎ込んだ生
まれ故郷の存在の重さ、大きさを、私はその時はっきりと思い知らされたのである。
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それからの長い年月、いろいろな曲折があった。東京へ出て、そこからまた全国各地
の都市で生活する出張店員の仕事を数年以上もやり通した。
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見知らぬ土地で、見知らない人達と暮らすことで、私は自分の過去を忘れようとし
た。故郷にまつわるすべてを捨て、別の女に変身したかったのである。一時は、出張
先からまたその先へと移動して便りも出さず、家族に、「野たれ死にでもしたのでは
あるまいか・・・」と心配されたこともあった。
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だが、過去はついてきた。愛憎は表裏一体である。故郷への執着の強さが、私をがむ
しゃらな離反へとかりたてたともいえる。だから、書こうとすれば自然に村の生活が
出てきてしまうのである。農業のためや、村の文化のために書きたくなるわけではな
い。今の私が現実に生きている背後には、どうしても消し去ることのできなかった自
分の生きた足跡が、故郷に向かって、しっかりと続いている。
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そのふるさとも今は変わった。生活の仕方も、ものの考え方も、時流に応じた当然の
変貌で、一言でいいとか、悪いときめつけることはできない。
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都会で暮らす人間の田舎を見る目は、身勝手でわがままである。こうあって欲しいと
いう希望だけを押しつけたがる。地方や村は、都会人の人間性回復のために存在して
いると思っている人は多い。
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「疲れたから田舎へでも行くか・・・新鮮なものが食いたいから田舎へ行こう」
私はこれを聞くたびに、(すみませんねえ)と頭をさげたくなってしまう。私は自分
が故郷を捨てたという意識があるためか、疲れたから帰ろうとか、参ったから田舎へ
行こうとか思ったことはない。
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いいことが起きた時、元気で力が充ちている時は、村へ帰ってみようかな、と考え
る。だから、上野駅で帰るに帰れず浮浪者になってしまった人達の、故郷へ抱く哀し
い望郷の念は、胸に切なく伝わってくる。一歩踏みちがえたら、私だって仲間になっ
ていたかもしれない。
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出稼ぎのまま帰れなくなった人、自由が欲しくて流れ着いた人、また人生そのものを
投げてしまった人もいるだろう。共通して言えることは、そのだれもが自分の生まれ
故郷を持っているということである。どんなに否定しても消すことのできない己の原
点として、胸の奥に抱えこんでいるはずである。
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今度の受賞で、私は多くの人から、「これからも農民小説を書きますか」と聞かれ
た。農民や農村は書くけれど、レッテルを取った小説を書きたいと、私は思ってい
る。それはふるさとをつなぐ生き方の中で、二つに折れ曲がった自分の躯を一つに直
す作業であり、原点から新しい出発にしたいものだと、願っているからである。
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