亡くなった児の「子守唄」


20020916



テレビの人気番組の地口を真似ると、家のリフォームは腕のいい職人へ。 家庭のリフォームは、司会の「みのもんた」へと、なるらしい。しからば、 壊された自然のリフォームは誰がするの、と、なるのだが、ここは昂ぶり を抑え、亡くなった児を偲ぶように、情緒的に、失われた東海市の自然を 回顧してみたい。

1963年(昭和43)6月、長野県白馬村より就職の地、名鉄大田川駅に降り立っ たときは、いささか失望感にうたれた。それは、目の前に山が見えず、足 を浸せるような川も目に映らなかったことが起因であった。しかし、それ は是非も得ないことであったかも知れない。

岩手県釜石生まれの私は、1960年より3年間長野県白馬村に住民票があった。 職業は今でいうフリーターであった。夏は3000m級の白馬岳の村営の山小屋 (天狗山荘、白馬岳頂上小屋、猿倉小屋)で働き、冬季は八方尾根の国民宿舎 や旅館でスキーをしながら働いていた。春と秋は地元で農業を営む山仲間宅 に居候をし、農業を手伝っていた。

当時このようなライフスタイルをとる、根からの山好きの男女が結構存在し ていた(現在でも存在するが)。みずから山乞食や高嶺乞食などと自称し、生 活は安定しないが、自然に依存した奔放な生き方をしていた。

四季折々、崇高な日本アルプスに抱かれ、褥(しとね)としていた生活から一 転して開発途上の東海市では落差が多かった。しかし、仔細にカメラを持っ て市内の雑木林、ため池、田畑、などを歩き回ると、魅力ある生き物たちが、 「写して」とばかりポーズをとり、招いてくれた。

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杜父魚文庫