ある遺稿集 820401
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幻の碧き湖を求めて
涯しない人の世の砂漠をさまよいし
わが旅路の漸く終わりに近づきたるか
六十路の半ばもすぎたるに
われ湖にいまだ巡りあえず
されど、いつの日か
そを見ることのあらんかと
されど、ああ、あくがれの
碧き湖は彼方
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この詩は今年二月、脳血栓のため十年間の闘病生活の末、七十二歳の人生を閉じた老
婦人最後の作品である。
夫は昭和初期のプロレタリア文学運動に一時従事した岩手県出身の作家古沢元で、戦
後シベリアに捕虜として抑留され、病死している。
この夫妻の小品を集めた古沢元、真喜「遺稿集」(三信図書)がこのほど遺児の手で
出版された。わずか六百部の限定出版で、亡き父母をしのぶ記念の気持ちから、親し
い人たちに配布したという。
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友人として驚かされたのは、ある程度作家活動をしていた彼の父の方はともかく、戦
後女手一つで子供を育てながら、こつこつと文筆を磨いていたことである。
しかも、この十年間は半身不随の寝たきり老人となっていたにもかかわらず、書くこ
とに生きがいを見つけようとしていた。
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ベッドの上で亡き夫との出会い、当時のプロレタリア文学運動の実態を淡々と語りな
がらも、みずみずしい筆致を失わないのに感心させられた。
この小説は同人雑誌に連載されたが、いよいよ病が重くなって中途で筆をおかねばな
らなくなった時、冒頭の詩を編集者に送ったのである。
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カール・ブッセの「山のあなたの空遠く…」を思わせるロマンチックな詩だが、これ
が老婦人の生命を最後まで燃焼させ続けたものだった。
追い求めた「碧き湖」は決して個人的な幸せではあるまい。苦難の時代に夫と目指し
た理想の社会だったのではなかろうか。
老婦人の死で、若さというものを教えられた気がする。
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