「戦場のピアニスト」を観て


2002/11/23

生活していると、ふと自分のアイデンティティが強烈に揺り動かされる時 がある。それは、スクリーンいっぱいに繰り広げられた映画を見ている最 中、音楽会に行き、何もかも忘れて音楽に聞き惚れている時、森の中を散 歩している時など、心身ともにリラックスしている時である。でも、この ような瞬間が訪れる時はたいてい、自分とはまったく無関係のものに直面 している時である。

普段、わたしはベルリンに住んでいる日本人、として日常生活に接すること が多い。それは自分自身から積極的にそう意識するというより、むしろ外 側から日本人としてのアイデンティティを意識させられることの方が多い と思う。日本人であることで、日本について質問される機会は本当に多い からだ。知り合いが集まる夕食会、またはフォーマルなパーティなどで話 をする時には必ず日本について聞かれる。日本の文化、文学、日本語、歴 史、青少年問題、経済不況、などなど例をあげたらきりがない。

こういう場に対応するのは比較的楽だ。自国について話すのは楽しいし、 ヨーロッパの人々が日本について興味を示してくれるのは嬉しい。だから、 思い付く限りのことを話す。そしてこちらの生活も加味した自分の意見を 言うようにしている。

でも、自分のアイデンティティが根本的に揺り動かされるような瞬間にで くわすと、いつも大きな戸惑いを感じることになる。それは、普段まった く意識していない素の自分がどこかからふっと現れ、強烈に何かをわたし にささやきかけるからだ。この素の自分が何であるか、ということを説明 するのはとても難しい。簡単にいえば、自分という人間を認識するための 記号、例えば、性別、職業、国籍などをすべてをとっぱらった状態の自分 といえる。その自分は日本人でもなんでもない、ただの何かなのだ。とは いえ、この説明はとても不十分である。感覚的にこの状況を説明するなら ば、自分の中から魂だけがポンと出て、真っ暗闇の無限の宇宙に広がって いくような感じだ。

一週間ほど前、ある映画を見に行った時にもこのような瞬間に遭遇した。 それは、Der Pianist(邦題:戦場のピアニスト、ロマン・ポランスキー 監督)という映画で、対戦中にユダヤ人虐殺の最中をワルシャワのゲット ーで生き延びた、ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、シュピールマンを 主人公とした半ドキュメンタリー映画である。

彼はもともと裕福なユダヤ人家庭に生まれ育った。だが、戦争の進行とと もにナチスの抑圧も過酷さを増していき、次第に彼の生活は朽ち果ててい く。ポーランドで名を挙げていたピアニストだったため、ゲットーで生活 していた人々が強制収容所に収容される中、彼だけが特別に助けられるこ とになる。いっしょにいた家族ととは別れの言葉も交わせぬまま、その場 で永遠に別れさせられ、収容所行きの電車が去った後、彼は廃虚となった 家屋に戻っていく。そこ一帯には人影は全く無い。そして、過酷な孤独の 日々が始まっていく。

ドイツ人の昔の友人、ピアニストとしての彼の一ファンであった知人など から助けられ、隠れ家をあてがわれ、定期的に食料を与えられて、彼は何 とか生き延びていく。その後、その隠れ家自体が戦災に遭い、崩壊したた めに、廃虚と化した街中をナチスの監視をすりぬけながらさまよい続ける。 だが、そこへ偶然見回りにやってきたあるナチスの役人に見つかってしま う。「おまえは何者か。」という問いに、彼は「わたしはかつてピアニスト だった。」と答える。

役人の要求に応じて、彼はそこでショパンを演奏し、その演奏に深い感銘 を受けた役人は、その後、食料・衣料を与えるために彼の隠れ家に定期的 に訪れ、彼は何とか命をしのぐというストーリーである。

爆撃で崩壊した廃虚のシーンは身震いさせられるほどリアルであった。通 りには骨組みだけとなった家々、無数の腐乱した死体が広がっている。曇 天にかすかに浮かぶ月が、無人の街を照らし出す。どこまでも続く死の世 界の中で、自分だけが生命を有する唯一の生物であるという極限状況で、 彼は負傷した足を引き摺りながら歩き続ける。生き延びるために。廃虚に 入り、昔台所であったと思われる所に忍び込み、食べ物を探し続ける。

わたしは、次々と展開されていく想像を絶するほどの過酷なシーンに目が 釘付けになっていた。もし、自分がこんな中に突然ほうりこまれたとした ら、とてつもない恐怖感と孤独感で気を失ってしまうかもしれない。でも、 映画の中の主人公はただただ歩き続ける。本能的に。そこには恐怖感など とといった感情的を感じ取る余裕すらないように思われた。

映画を見終わってもう一週間が過ぎるというのに、このシーンはいつまで も私の脳裏に焼き付いている。この映画は、テーマとしていたことがいっ ぱいあり、映画を見終わった後は、いっしょに見に行った友人と夕飯を取 りながら戦争について語り合うことになった。でも、次の日にこの映画に ついての感想を別の友人にメールで書いている時に、ふとこのシーンだけ が妙にくっきりと自分の中に蘇ったのである。

恐らく、このシーンによって素の自分が呼び覚まされたのだろう。普段はそ っと眠っている自分の中のもう一人の自分が目を覚まし、容赦無く自分に 語り掛けてきたのだ。大袈裟な言い方をすれば、わたしはこのシーンの中 で、人間の原点を見つけたように感じたのだ。人間は本能的に、生きよう とする生物なのだと思った。究極に過酷な状況に置かれた時に、人間は哀 しみとか苦しみ、恐怖感などを超越した何も無い状態、無の境地に達する のだと思った。同時に、人間は常にこのように原点に立ち戻る瞬間を潜在 的に欲しており、それを模索し続けているのかもしれないとも思った。

こんなことを感じてしまった後、自分の日常生活に戻るのは容易ではない。 素の自分のフィルターを通してこの世界を眺めて見ると、それはまったく 別世界である。別世界にいると思いつつも、週末にはバーゲンでいっぱい 買い物をし、お気に入りのタイ料理レストランで友達と夕飯をとり、なか なか楽しかった。我ながらタフだと思う。人間てたくましいなぁ、としみ じみ思った一週間であった。

 

 
杜父魚文庫