渤海国人船代 信濃大門

東御市(旧北御牧村)に両羽(もろは)神社という神社がある。 下之城という地籍にあり官牧のあった御牧台地の西斜面にある。

この神社には、木造の船代と呼ばれる人の木像がありこの人物はダッタン人(渤海国人)だといわれている。

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龍国日本の”竜伝説” 古沢襄

麻布中学に合格した孫の竜太が、二泊三日で遊びにきて帰っていった。麻布中学校・高等学校は六年制の中高一貫教育校、ユニークな自由な校風に魅力がある。孫が大学をでて社会人になる頃は、私は八十五歳を越える。それまで生きられるか、それは神のみぞ知る。竜太の名付け親は芥川賞作家の辺見庸。

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十三湊文化と蝦夷系譜の秋田氏 古沢襄

四年前の夏、「大津波で消えた十三湊文化」の雑文を書いたことがある。<<津軽・十三湖を訪れたいと思いながら果たせないでいる。十三湖・・・津軽人の太宰治は「「真珠貝を水に浮かべたような」と十三湖を表現している。中世、十三湖の開口部にある十三湊(とさみなと)が日本海の海運拠点として栄えていた。

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白鳳時代からあった「秋田」の呼称 古沢襄

秋田美人、秋田犬などで知られる”秋田”の名なのだが、ウイキペデイアでは次のように紹介されている。

<<江戸時代の1604年 – 秋田市中心部の原形となる城下町久保田が建設される。 明治になると1869年(明治2年)6月17日 – 版籍奉還により、12代藩主佐竹義尭が久保田藩知藩事に就任する。1871年(明治4年)1月13日 – 久保田藩を秋田藩と改め、城下町である久保田城下を秋田町と改称。7月14日 – 廃藩置県により、秋田県・亀田県・本荘県・矢島県・岩崎県・江刺県が誕生する。11月2日 – 上記6県をあわせて秋田県が誕生する。>>

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北上市が黒沢尻といった昔 古沢襄(再掲)

北上線・・・岩手県の北上駅から秋田県の横手駅を結ぶ全長61・1キロのローカル線。単線だが春には萌えるような若葉の中を走り、秋には絶景の紅葉が楽しめる。大正年代の開業で、昔は”横黒”軽便線と言った。北上が黒沢尻と言った頃のことである。

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「前九年の役」と「沢内通り」に残る伝説について 高橋繁

「前九年の役」は、平安中期、陸奥国(岩手県・青森県)の豪族安部氏がおこした反乱(1051-62)である。1056年に源頼義が再征にのりだし、「乱」を鎮圧し、1064年京都に凱旋するまでの9年間を称してこう呼ばれている。

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「獣祖(じゅうそ)神話」と「感精(かんせい)神話」 古沢襄

■遊牧民族の「獣祖神話」

戦後の一時期、神話を無視する風潮が歴史学会にあった。戦前に日本人は”神の子”であり、日本軍は”神兵”だという選民意識があったことの反動であろう。

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参拝すると総理大臣になれる神社 古沢襄

三年前の六月のことになるが、四人の北朝鮮人が小舟で脱北し、青森海岸に漂着したことがある。佐渡島を目指し、携帯用の小型羅針盤を持っていたが、海流に流され青森海岸にまで持っていかれたと四人は言っていた。六月の日本海は穏やかな海になる。だが海流の速さは変わらない。

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東北の古刹に眠る人民文庫作家たち 古沢襄

岩手県西和賀町の一点山玉泉寺に行くと「いろは香堂」という資料館に昭和の人民文庫に拠った作家たちの初版本が保存してある。その冊数は81冊。人民文庫は武田麟太郎が主宰したプロレタリア文学雑誌。高見順、新田潤、円地文子、田宮虎彦、渋川驍、上野壮夫、平林彪吾、古沢元、本庄陸男、井上友一郎、田村泰次郎、矢田津世子といった若き作家群が同人雑誌・人民文庫に執筆している。

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メッケルの来日は功罪あい半ばした 古沢襄

司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」がNHKでドラマ化された。日露戦争で活躍した秋山好古、真之兄弟の話が中心となっている。その背景として明治陸軍の育ての親だったプロイセンのメッケル少佐の招聘について語らねばならない。

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山屋大将の「円戦術」講義録を復刻 古沢襄

2005年4月27日の盛岡タイムスに「丁字戦法の真実に迫る 岩下秀男氏が山屋他人”海軍戦術”を復刻」という記事が出ている。1993年1月27日から盛岡タイムスは「山屋他人 ある海軍大将の生涯」という129回にわたる連載記事を書いている。

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日本海大海戦の勝利の陰に 古沢襄

明治海軍は薩摩の西郷従道によって育てられた。兄の西郷隆盛が征韓論を唱えて下野して、薩摩に戻ったときに西郷従道は明治政府に留まっている。明治十年の西南戦争では多くの薩摩士族が西郷隆盛を慕って決起したが、西郷従道は陸軍卿代行になって明治政府の留守を守った。

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「太平記」よりは「梅松論」 古沢襄

姓氏家系の研究では第一人者である丹羽基二さんの著書に「日本の苗字事典」がある。(一九九四年 柏書房)。これが平易な文章で読みやすく、実に面白い。普通の事典とは違って、苗字にまつまる歴史や意味を分かりやすく書いてある。

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金日成が朴正煕を一時支持 古沢襄

韓国の朝鮮日報は、北朝鮮が朴正煕元大統領らを「左派」と判断していたとする中国の外交文書を明らかにしている。1961年5月16日、朴正煕陸軍少将は軍事クーデターを起し、国家再建最高会議議長に就任している。その時に北朝鮮の金日成主席は、これを支持する声明を準備したという。

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東日本は”沢地名”、西日本は”谷地名” 古沢襄

日本の苗字の研究で第一人者である丹羽基二氏は”沢”の字がつく姓について、東日本に多いが、西日本には少ないという説を唱えている。地名でも”沢地名”は国土地理院の20万分の1の地図で、岩手県に22カ所、長野県に24カ所があり、すでに廃れつつある小字(あざ)程度の小地名を入れたら、この十倍以上の”沢地名”があると推察している。

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上田小県誌における深井氏 信濃大門

年号 記載内容
嘉暦4年 3月(1329)   守矢文書(諏訪郡宮川村・守矢真幸氏所蔵)
諏訪上宮五月會付流鏑馬之頭・花會頭与可為同前御射山頭役結番之事七番五月會分 右頭、海野庄内深井、岩下両郷地頭、深井海野次郎左衛門入道知行分  

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天正年間から元和年間における深井氏  信濃大門

天正10年(1541)武田信虎勢は、小県郡を手にいれるため村上義清と手を結び、海野氏、祢津氏、矢沢氏を攻めた(海野平合戦)。

この時の海野氏の棟梁は、海野棟綱で、重臣は、深井右衛門尉棟廣であった。

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「深井」と「御井」 信濃大門

■高麗系の帰化人と「御井」

「日本後記」の中に延暦18年12月5月の条に次の文章がある。

「信濃の国の人外従六位下、卦婁真老。後部黒足・前部黒麻呂・前部佐根人・下部奈弖麻呂・前部秋足・小県郡人無位上部豊人・下部文代・高麗家継・高麗継楯・前部貞麻呂・上部色布知等がせ調停に申し上げた。我々の祖先は、高麗人であります。推古天皇・舒明天皇の時(飛鳥時代593~641)に入国帰化しました。それから今まで、代々平民で、まだ高麗のときの姓を改めないで使っております。

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古族深井氏の研究に当たって 信濃大門

長野県の東信地区の東部町は、平成16年の北佐久郡北御牧村との合併で東御市となった。旧東部町和(かのう)地区には、深い地籍があり、室町期には小県郡下の深井郷として存在していた。その後上深井、下深井地籍に区分されたが、明治になってからは小県郡和村となり字名で東深井、西深井になった。

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九州南部に古沢氏がある謎 古沢襄

関東の中世史以降の合戦記録はかなり読んだつもりでいる。資料も少なからず持っている。だが博多に三年間も住んでいたのに九州の合戦記録は読んでいない。今になって迂闊だったと気づいても遅い。九州と沖縄が福岡支社長の守備範囲だった。とくに宮崎県には三ヶ月に一度は行った。

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真田一族の出自の謎 古沢襄

二〇〇七年だから二年前になる。知将・真田幸村を生んだ真田一族の出自は研究家によって様々な考察が行われてきたが定説がない。私も調べたことがあるが、奥行きが深くて調べれば調べるほど暗中模索に陥った。サジを投げて「真田の不思議について」というエッセイを書いたことがある。

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上田の松井須磨子の縁者たち 古沢襄

信州・上田には私の母の実家がある。旧姓は木村真喜、明治四十三年一月九日生まれ、小学校の卒業免状には長野県士族・木村真喜とある。今度の信州旅行では母の義妹である臼田絢子さん(旧姓は木村絢子)と十年ぶりに会った。

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インド独立の英雄・チャンドラ・ボース 古沢襄

友人の菊池今朝和さんは北アルプスに魅せられた山岳登山家。新日鉄を定年退職したら迷わずに北アルプスの池の平小屋の番人になった。夏山シーズンに入ったことしも仲間たちと山ごもりをしている。その菊池さんから面白い山岳紀行文があると教えて貰った。数年前のことである。

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猛将・車丹波守と吉田城 古沢襄

水戸の吉田城・・・水戸駅から南に二キロ行ったところに遺構がある。歴史は古い。築城は坂東平氏(桓武平氏)国香流の吉田氏による。平国香の子孫は常陸平氏の嫡流として常陸大掾職に任じられた。職名から「大掾氏」(だいじょうし)と呼ばれている。

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インドガンと鳥インフルエンザ 古沢襄

シベリアのバイカル湖を訪れて印象的だったのは、渡り鳥の王者といわれるインドガンがこの地で繁殖し、厳寒を迎える前に若鳥を伴って、一斉にインド北部を目指して飛び立つ壮大な風景であった。

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ホテル「ベラ・バラス」の輝き 古沢襄

<かつて国際列車「オリエント急行」の終着駅だったトルコ最大都市イスタンブールで、英推理作家アガサ・クリスティが定宿とした名ホテル「ペラパラス」の修復作業が本格化している。約120年前に欧州からの乗客向けに建設された当時の輝きを取り戻そうと、来年11月の再オープンを目指して全面改装作業が進んでいる。クリスティは名作「オリエント急行殺人事件」をここで書いたとされている。(イスタンブール共同)>

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ふたつの砂漠宗教とアジア仏教 古沢襄

キリスト教とイスラム教は同根の宗教というと人は信じない。しかし、ともに旧約聖書から発した一神教である。同根なるがゆえに相容れない相克の歴史を積み重ねてきた。アメリカの政治学者サミュエル・P・ハンティントンは「文明の衝突」の著書の中で次の八つの文明をあげたが、やはりキリスト教文明とイスラム教文明を対比することに多くのページを割いている。

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「新疆」の名を嫌うウイグル族 古沢襄

中国の新疆ウイグル自治区のカシュガルで起こったテロ事件は、邦人記者二人が中国の武装警官に拘束され、顔を殴られるなど暴行を受ける事件まで発生した。日本人にとって新疆ウイグル自治区は馴染みの薄いところである。

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水戸はご謀叛のお家筋 古沢襄

「水戸は代々ご謀叛のお家筋」という言葉がある。播州・赤松氏の血筋と思っている私は「ご謀叛のお家筋」は人ごとではない。興味があって水戸のことを調べた時期がある。父・古沢元は藤田東湖に惚れ込んで水戸にのめり込んだが、私は「ご謀叛のお家筋」に惹かれて水戸の資料集めをした。

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鬼怒川には橋がなかった 古沢襄

川の流れをみていると飽きない。40数年も大都会の人の渦ばかり見てきたから、悠然たる川の流れをみていると気持ちが和んでくる。もっとも利根川では、何やらけたたましい音をたてる水上バイクで遊ぶ若者が増えているので、もっぱら鬼怒川の方に出向いている。川を見ていると一時間ぐらいが、すぐ経ってしまう。

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ドイツ海軍の膠州湾占領事件 古沢襄

大学時代の恩師が亡くなった。15日10時から東京・目黒の羅漢会館で告別式が行われるが、骨髄腫の身だから自宅でご冥福を祈るしかない。中国キリスト教史という特殊な専門分野なので新聞の訃報欄にも載っていない。ひっそりとした旅立ち・・・。

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川中島の濃霧 古沢襄

板東太郎・利根川の橋を車で渡ると濃い霧に包まれることがある。川霧は幻想的だと呑気なことを言っておれない。老眼を見開いて対向車のライトを見定める苦労をしなければならない。私が住む茨城県の守谷市は秋から冬にかけて霧がよく発生する。

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武田晴信正妻の涙 古沢襄

NHKの大河ドラマ「風林火山」は、武田・今川・北条の三国同盟を描いた。武田・北条の盟約を確かなものにするために晴信の長女を北条氏康の息子・新九郎(氏政)に嫁した。天文二十二年十二月に武田家から北条家の輿入れは、騎馬武者三千を含む一万余の行列だったという。

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真田三代と上田城 古沢襄

俗に”真田三代”という。真田幸隆、昌幸、幸村のことだが、昌幸が一番の策士だったようだ。幸隆は武田信玄の謀将として信玄の東信濃攻略に寄与したが、その居城は上田市の北東、旧街道に位置する小県郡真田町にあった。松尾城という。

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信玄を変えた上田原の合戦 古沢襄

NHKの大河ドラマ「風林火山」の視聴率があがっているのではないか。杜父魚ブログに書いた武田信玄ものの記事が軒並み高いアクセスを得ている。信州の上田で少年時代を過ごした私にとって真田一族、村上義清、反骨の佐久衆、諏訪大明神に帰依した諏訪一族の興亡は人並み以上に関心があった。

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聡明で誇り高きブリヤート娘たち 古沢襄

日本人の遺伝子には北方系と南方系の「二重構造モデル」がみられるという。日本犬の遺伝子にも「二重構造モデル」があるというのは興味深い。およそ一億二〇〇〇年から一億三〇〇〇年前にシベリアのバイカル湖周辺にあったブリヤート人が地続きのサハリン、北海道を渡って日本にやってきた。その数は七〇〇〇人前後という推定値がある。

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秩父宮とソバの話 古沢襄

明日の夜は奥羽山脈のふところに抱かれた西和賀で星を眺めることになる。NHKの朝ドラ「どんど晴れ」で、盛岡で見る星空は東京のそれよりも近くに感じられるという言葉があった。西和賀の星は盛岡の星よりも、もっと近くに感じられる。

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平将門と守谷城趾 古沢襄

わが家からマイカーで15分とないところに守谷城趾(守谷市守谷字城山)がある。典型的な水城だったが地元の人は平将門が築いたものだという。六〇年安保の当時、防衛庁長官だった赤城宗徳氏は将門研究でも知られていた。彼の研究では「将門の弟将頼は、御厨三郎と称したことをみれば、ある時期に将頼を御厨の所在地・守谷に駐在せしめていたのかも知れない」といっている。

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千葉一族と東北 古沢襄

相馬姓は全国で約三万あるが、その本流である千葉姓は約六万だという。丹羽基二氏の説だから間違いない。ところが発祥の地である千葉県や千葉市よりも仙台市に約一万でもっとも多い。盛岡市にも約一五〇〇人の”千葉さん”がいる。岩手日報から萬鉄五郎記念美術館の館長になった千葉瑞夫氏からことしも年賀状を頂戴したが、遠祖は平将門だとはご存知ないだろう。

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雑学”の大家・司馬遼太郎 古沢襄

司馬遼太郎という作家はスケールの大きい”雑学”の大家だったと思うことが屡々ある。日本固有の私小説の世界とはチト違う。雑学という呼称に惑わされて軽く見てはいけない。ひとつの大作を書き上げる過程で様々な資料集めをして、それが記述の中で”独白”の形式をとって、さりげなく語ってくれている。

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北上市が黒沢尻といった昔 古沢襄

北上線・・・岩手県の北上駅から秋田県の横手駅を結ぶ全長61・1キロのローカル線。単線だが春には萌えるような若葉の中を走り、秋には絶景の紅葉が楽しめる。大正年代の開業で、昔は”横黒”軽便線と言った。北上が黒沢尻と言った頃のことである。

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全国の古沢姓を調べて十年 古沢襄

このところ各地の古沢姓の方からメールを頂くことが多くなった。古沢姓はそうは多くない。私の調査では岩手県の紫波町北田、西和賀町沢内、茨城県の下妻市古沢、八千代町、神奈川県の厚木市古沢、静岡県の御殿場市古沢、小山町、九州の大分県などに固まって古沢姓がある。

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板東武者の栄枯盛衰を刻む平城 古沢襄

「茨城の城郭」という近刊書を頂戴した。茨城県には中近世の城郭跡が1000城あると聞いていたが、この本は140城を選んで、図や解説文で紹介している。昨年夏に探訪した牛久城趾も詳しく出ている。(茨城の城郭・図書刊行会)

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下中弥三郎とケネディ返書 古沢襄

戦後出版界の重鎮だった下中弥三郎氏と会ったのは昭和二十六年頃であった。末次信成内相の秘書官だった鈴木憲一氏に連れられて、東京・八重洲口にあった平凡社に行った。当時の私は早稲田大学に入ったものの授業料を滞納して除籍寸前という状態にあった。

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寒冷化説と温暖化説 古沢襄

一九七〇年頃には異常気象が頻発したことから、寒冷化、氷河期の到来を予測する危機説が流行った。人間がエネルギーを石油や石炭に頼っているかぎり、全地球的な大気汚染が増加する一方で、しかもそれは太陽の直達日射をさまたげ、寒冷化を招くという地球寒冷化説である。

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水戸を愛した右翼の墓 古沢襄

暖かくなったら水戸にある盲目の右翼・雨宮菊夫氏の墓を詣でようと思う。旧制中学の一年生の頃、この人と一年間起居をともにした。坊主頭の村夫子然とした穏やかな人で、とても赤誠会八紘塾長とは思えなかった。

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